トルコ軍艦遭難日に定例参拝

串本ロータリークラブ

1890年9月16日夜、本州最南端串本町大島の太平洋に面した樫野埼沖で、明治天皇を表敬し、帰途についたトルコ皇帝の使者の乗るトルコ軍艦エルトゥールル号は座礁・沈没、乗組員69名は救出されたものゝ、600名近い方々が亡くなられるという、大遭難事故が起こった。

当時の旧大島村島民は半農半漁で、遭難した者はどこの国の人でも助けることは当たり前としていた。荒れ狂う海からたどり着いた乗組員に対し、島民は①人肌で温め、②非常食の鶏や甘藷、③衣類等を惜しみなく提供し、献身的に手厚く救難・救助したのである。又、当時の大島村には医師が3名おり、負傷者50名余を診察・看護したことに対して県を通じて国から治療費と薬代を請求するように連絡があった。医師3名による返事の写しが残されているのだが、結びの部分に彼らの献身的な気持ちが率直に記されている。

「・・・私達にはもともと薬価および治療代を請求する気持ちなど毛頭なく、ただ傷ましい遭難者を心からお気の毒に思い、ひたすら救助一途の人道主義的精神の発露に過ぎず、薬価および治療代は義捐いたしたく存じますので・・・」と書かれているのである。以後、串本町は日本トルコ友好親善の原点の町と言われるようになった。現在は、トルコ大使館と串本町の共催で、5年間毎に盛大な慰霊祭が挙行されている。

一方、6年前から串本町民有志により遭難日(命日)の9月16日午前10時のトルコ軍艦遭難者慰霊碑前に集い、自主慰霊式典が行われるようになった。串本ロータリークラブでは、小寺孝佳会長時に、当日が丁度例会日の火曜日に当たったことから移動例会とし、クラブ会員全員で参拝したのである。式典終了後、関係者と近くの喫茶店で交流会を行うことが慣例となっている。例えば、地元住民は昔慰霊碑に参拝する時、慰霊碑階段から上は裸足で上がるとか、2年前の遭難120年の年にトルコメルシン市での慰霊式典に参加した方から、現地での式典の模様を聞かせて頂いた等々。

このような串本町民有志の定例参拝が下地となり、昨年から串本町役場主催の公式慰霊行事となっている。他団体等に参拝を呼びかけた串本クラブは、例会日以外であっても例会変更し、国際奉仕活動の一環として会員全員で定例参拝を続けているのである。