〜 第一部 〜
IM6組ガバナー公式訪問
合同例会 ・テーマ「多くの友達をつくろう」



〔6〕

 もう一つ、次の話は和歌山のどこかのIMで聞いた話であります。私が観客席におりまして聞いたんです。壇上に出てきてお話しされたのは、完全に目の見えない方でございました。杖をついて誰かに手を添えられて来られたんです。非常に元気な方でして、ご承知のように、神戸からちょっと大阪の方に六甲という駅がありますが、その六甲から大阪へ毎日仕事に通っておられるようです。
 ある日、夕方仕事が終わって大阪駅へ行ってJRに乗ろうということで、前が改札口だなというところで改札口へ向いてトコトコ歩いて行ったらしいんです。もう改札だというときに、どこかのおじさんとえらい勢いでぶち当たった。その方は、「ぶち当たると言っても、私はこんなんやから走ってるわけやなし、ヨチヨチ歩いているだけで、当たった目明きの方が悪いんです。」と言って笑っておられましたが、とにかくぶち当たった。そのぶち当たったおじさんはえらい怒りまして、「気つけんかい!」という話になったらしいんですが、ちょっと見ますと、目の不自由な方とわかりますので、「何や、目に障害があるのか。しゃあないな。」ということでちょっとトーンダウンしたらしいんですが、ぶち当てられた方は――この辺から私の推測ですが、目の前が改札だと思って歩いていた。それを正解としませんか。ポーンと当てられて体の向きが変わりますと、どっちが改札かということは、改めて周りをクルクル手でたたいてみないとわからない。それはそうだろうなと思うんです。舞い舞いしているとそのおじさんが「どないしたんや。」「いやあ、改札口が……」「おう、改札口はこっちや。」といささか乱暴に改札へ連れていってくれたそうです。
 改札は通りました。「ここからどないするんや。」「いや、私、六甲の方へ帰ります。」「そうかい、俺も六甲の向こうまで帰るからな、こっちや。」と言ってホームへ連れていってくれたらしいです。電車が来た。「こっちや。」と言って引っ張って電車に乗せてくれて、「椅子、ここすいとるわ。ここへ座れ。」と座らしてくれたらしいです。目の不自由な方が電車に乗って、どこの席がすいているかということがまずわからないそうであります。あいているかあいてないか見ようと思いますと、手でさわってみないといかんのですが、これはもしおられると非常に失礼なことになるのでできない。電車の中で座るということは難しいことらしゅうございます。
 その次に難しいのは、止まった駅がどこかということです。車内放送が聞こえたらいいんですが、聞こえなければ全くわかりませんので、大阪の次は塚本だ、その次は尼崎だと勘定しているんです。7つ目か8つ目ぐらいが六甲だとおっしゃっていましたが、勘定していましたら、そのおじさんが「何勘定しとんねん。」「いや、六甲は幾つめなんで……」「いや、きょうはおれがついとる。六甲が来たら言うたるから心配すな。」という話になりまして、いろいろ打ち解けて話ししもって六甲へ着いたらしいです。
 「おう、六甲へ着いたぞ。おりるんやろ。」「はい、ここでおりるんです。」「こっちや、出口こっちやから。」とドアのところまで連れていってくれて、「気つけよ、電車からプラットホーム10センチほど低いで。」という話になって、おろしてくれた。その方はおりて、声のする方へ向かって丁寧に頭をさげて「どうもありがとうございました。きょうは非常に楽に帰ってこれました。」とお礼を言われたそうです。そのおじさんは、「おう、気つけて帰れや。」と答えを返してから、一言独り言を言ったらしいです。どう独り言を言ったかといいますと、「そうか、こんなおれでも役に立つことがあるんやな。」と言ったというんです。
 もう10年以上前の話ですが、私はその言葉がそれからずっと頭にこびりついて離れないのであります。人にぶち当たってすぐけんか腰になるようなおじさんと皆さん方と決して同列とは思いませんが、皆さんの中には、長引く不況でちょっと仕事もまずいしなと非常にお悩みの方がおられるかもしれません。ひょっとしたら、ご自宅にお年寄りとかご病人がおられて、女房に苦労かけとるなと思って悩んでおられる方がおられるかもしれません。また、子供さんやお孫さんが受験で家じゅう殺気立っているというような状態にある方がおられるかもしれません。そういう方は、「今こんなときに困ってる人に手を差し伸べ、奉仕や言うたって、そんな状況と違う。わし自身の方が手を差し伸べてほしいんや。」とお考えの方がおられるかもしれません。しかし、どうぞそのときに、そのおじさんの言葉を思い出してほしいんです。こんなおれでも役に立つことがあるんです。
 それがラタクルさんのおっしゃる「種をまきましょう」ということに私はつながると思います。決して大きな木を持ってきて植えてくれということをおっしゃってないのであります。種というのは一粒です。まいたら芽が出てくる。それがだんだん大きくなって立派な木になるわけです。「今なあ、おれはそんな余裕ないんや。」と言うときに、あのおじさんが言った「こんなおれでも……」という言葉を思い出していただきたいなと思うわけであります。
 そのおじさんは、決して奉仕活動をしているという認識はなかったと思います。目の見えない人が舞い舞いしているのを助けて、「こっち改札口やで。ここの階段上がったら六甲行きの電車来るで。来たらドアはどこや。」ということは、目が見えましたらごく当たり前の話であります。決して助けてやったという意識なしに六甲まで行ったと思うんです。そのあげく、目の見えない人が非常に感謝して喜んでくれた。その喜びが、いささかラフなおじさんの心に対して「よかったなあ、こんなわしでも役に立つことあるんやな。」という認識に変わったわけです。
 そのお話をされました目の不自由な方は、最後に、「あの方はきっとこれからも交差点で私なんかが舞い舞いしてたら、おい、こっちやでと言って前のいささか乱暴な調子で案内してくれる人になられたでしょう。」とおっしゃっていました。ですから、そういう相手の喜びを自分の喜びにするということで、その方は十分満足されていましたし、極端な言い方をしますと、その方の人格が一回り大きくなったんじゃないかなという気がするわけであります。
 先ほどのラタクルさんの話も、今の話も、奉仕の現場に足を突っ込んで、実際問題奉仕を受けた人が喜んでくれた、その喜びを感じて、よかったなと一緒に喜び合えるという状態になっているわけであります。どうぞ、これがロータリーの奉仕活動の本当の原点だと思いますので、ひとつ皆さん、例えば単に物とかお金を寄付した、それだけでもちろん礼は来るでしょう。来るけれども、それを使って結果がどのように出たのかと、もう一つ奥までちょっと調べていただいて、会員の皆さんに「あなた方、ニコニコで集めたお金をこうしたら、最後にこんなに喜んでくれたんやで。」という話をぜひ聞かせてあげていただきたいなと思います。
 ご承知のように、ロータリーというのは任意団体でありまして、ここの会員であるかないかは皆さんの意思一つで決まるわけであります。誰もロータリーの会員に強制とか義理とか義務とかでなっておられる方はないはずであります。したがって、そういう方々ばかり集まっているのがロータリーですから、ロータリーへ入ってロータリーの活動、ロータリーの例会、その他にある種の喜びとある種の楽しみを感じていただかないと、全く意味がないように私は思います。そういうことを感じられずに退会された方も数多いのではないかなと私は思うわけであります。
 どうぞ、ラタクルさんの方針は、「今年は私は何も言いません。どうぞクラブで活動方針をお考えください。」ということであります。私もそのとおり思っております。では、どういうクラブにするかというと、皆さんのクラブの古くから入っておられる会員さんも新入会の会員さんも、入ってよかったなと思うためには、入っておもしろい、愉快な楽しみ、それから喜びがないとだめなのであります。どうすればそのような楽しみとか喜びを感じていただけるクラブになるか、どういう活動をすればそうなるかということをお考えいただいて、そうなるように努力していただくというのは、会長さんを初め皆さん方の責務ではないかと私は思います。
 この1年、既に4分の1は過ぎました。来年の6月まで私も全力投球いたします。ひとつ皆さん方もよろしくご協力をちょうだいしたいなと思っております。
 ご清聴ありがとうございました。終わります。

 SAA秦 正光 小島 哲ガバナー、貴重な卓話ありがとうございました。
 これをもちまして、第一部、IM第6組ガバナー公式訪問・合同例会を閉会とさせていただきます。



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