『生涯学習のススメ』
−「教育」から「学習」の時代へ−

四天王寺国際仏教大学 人文社会学部
教授 塚原 昭人
(羽曳野ロータリー会員)

【はじめに】
 20世紀、人類は国家・民族・宗教観の相違によって、文明の衝突を繰り返してきた。幾度かの悲惨な戦渦や不条理な紛争は、数多の尊い犠牲を代償としながら、人類に平和・共存の途を模索する機会を与えた。国際社会では、事態の打開・終息をめぐって、新たなる世界秩序の安寧や相互主義の原則に基づく、平和な国家観の共有が促された。

  しかしながら、21世紀の当初に勃発した、9.11世界同時多発テロ事件以降、世界各国はテロリズムとの対峙に一端は協調し、その後、イラクの核開発・大量破壊兵器保有疑惑が浮上するや、国際情勢が一変した。国連や安保理では米・英と仏・独が双璧となって、武力行使か査察継続かをめぐって、もろくも激しい対立の構図を持ち込み、国際社会は、戦火を交えるか、外交努力による回避か、熾烈な選択を迫られた。各国では、平和を願う動きも活発化したが、結果は米国の最後通告によって、イラクへの武力行使となった。

  わが国では、戦後堅持してきた国是・外交姿勢である、平和主義(日本国憲法第9条)、日米同盟(日米安保条約)、国連中心主義(国際連合)が、逆にトリレンマとなって、独自のスタンスを鮮明にできぬまま、政府見解として米国支持を選択した。

 一方、国内の社会経済は、長引く不況によるデフレスパイラル懸念、バブル崩壊後10年経つが遅々として解消されぬ不良債権、金融システムの不安定化要因など、克服すべき課題・難問が山積されたままである。財政・金融など構造改革も当為であるが、急ぐべきは現下の景気浮揚であり、完全雇用の再確保(自発的失業を除く)と将来への成長・発展の基盤となるべき新規産業・企業の創出・育成にある。

 このような内外の暗澹たる世相を反映してか、わが国の将来を担うべき若者たちにも少なからず悪影響が及んでいる。これまでのわが国の経済力や国際競争力の一翼を担っていたとされる学歴主義が、偏差値偏向教育によって加速化されるにつれて、家庭や学校教育の現場に、さまざまな問題を露呈する結果となった。「イジメ」「キレル」にはじまり、「学級崩壊」「不登校児の多発」「学習障害」と、これまでにはおよそ考えもつかない問題・懸案が頻発し、親や教師といった大人たちは、ただただ驚愕、狼狽するばかりで、現場では対処療法に追われる対応が目立った。事態を重く見た文部科学省も、学歴偏重・詰め込み重視の教育制度を改め、新機軸として「学校の完全週休二日制」「総合学習の時間」を導入するなど、抜本的な教育制度改革への取り組みに着手した。これら一連の改革は、正課の時間短縮や学習内容の削減によって、「こころの豊かさ」や「ゆとり」を追及したものであるが、学力調査の結果や学力低下論争によって「ゆるみ」ではないかとの批判に晒された。今次の教育改革に即効性とその評価を求めるには、いまだ時期尚早との感を否めないが、概ねその成否の鍵を握るのは、家庭・学校・地域間による教育連携・協同参画、いわゆる子育てや学習支援ネットワークの構築にあるように思えてならない。

  翻って、平和な福祉国家の実現とその永続性を希求するならば、一通りの学校教育を終えたにせよ、今一度大人たちは、次代を担う子供たちの教育に関して、普段にも増して高い関心を抱き、思いや考えを馳せる時間が必要であろう。歴史的にも教育は、時代を超えて真摯に論ぜられ、取り組まれてきた事実がある。尤も、「教育の原点」や「教育の在り方」をめぐっては、近年、その本質的意義・役割を問い直す諸論が展開されている。とりわけ、「教育」と「学習」との相関について、新たな視点を提起してみたい。

  平成11年(1999年)6月、ドイツのケルンで開催された「第25回経済サミット」で、国際社会が直面する課題とその解決策を『G8ケルン・サミット・コミュニケ』としてまとめられた『ケルン憲章』で確認する。  このコミュニケの第四章「人々への投資」において合意されたのが、『ケルン憲章‐生涯学習の目的と希望』であり、生涯学習の重要性が、このように規定されたことはきわめて画期的であった。「教育」に新たな使命と付加価値をもたらす「生涯学習」は、今や二十一世紀の知識重視社会におけるグローバル・キーワードになっている。

  憲章の序文で、「教育」と「生涯学習」が、世界的潮流として位置づけられている点に注目したい。「…来世紀《21世紀》は、柔軟性と変化(FLEXIBILITY AND CHANGE)の世紀と定義されるであろう。すなわち、流動性(MOBILITY)への要請はかってないほど高まるであろう。将来、流動性へのパスポートは、教育と生涯学習となり、それはすべての人々に提供されなければならない。」 そこで、本論では『生涯学習のススメ』−「教育」から「学習」の時代へ−と題して、近時、拙生の「生涯学習論」を開陳する。

【「生涯学習」と「生涯教育」】
  「生涯学習」を理解するうえで、よく混同される「生涯学習」「生涯教育」、両者の意味の違いについて、明確にしておく必要がある。実際のところ、この部分は行政においても、学校においても、時として現代用語の大家である筈のマスコミですら、誤った用い方をしている場合がある。「生涯学習」とは、"個人が生涯を通じて行なう主体的な学習活動"であり、「生涯教育」とは、"本来、生涯学習を支援し、援助する教育的活動"である。今日の「生涯学習」の概念は、「生涯教育」の具体化の過程で出現したものである。「生涯学習」の母体である「生涯教育」の中味を、いま少し詳しく説明を加えるならば、それは人々の出生から死亡に至るまでの生涯の全段階における教育と、家庭、学校、社会の全生活における教育をトータルに示す概念となる。また、教育概念としては、最も包括的かつ多元的な意味内容をもつ表現ともいわれる。さらに、専門的な見地からみれば、「生涯教育」は乳幼児期から青少年期、成人期を経て、高齢期に至るまでの教育全体を含み、フォーマル(形式的)、ノンフォーマル(形にとらわれない)、インフォーマル(形式ばらない)な教育パターンのすべてを構成する要素として、とらえられる。

  同様の視点で、「生涯学習」の概念を見るならば、「生涯学習」は、人々が生涯にわたって知識、技術、態度を開発する全過程を意味する。これは、家庭、学校、大学、短期大学、公民館、カルチャーセンター、職場および、その他の可能な教育資源を活用して行われる、個人的、および集団的な学習活動のすべてを含むものである。「生涯教育」「生涯学習」の両者に共通する特徴とは、「意図的学習」である。すなわち、「生涯教育」は、自己実現(自らの夢や希望を叶えることやそれに近づくこと)や自己啓発(自らを振り返り、自らの資質・能力を高めること)を目標とする、「支援・援助」の教育活動であり、「生涯学習」はあくまで受け身ではなく能動的な学習動機に基づく「主体的」な学習活動を意味する。

  故に、「生涯学習」を要約するならば、生涯にわたって、知識・教養を育み、資質・能力を培いながら、心豊かな人生を過ごすために必要とされている、個人ないし集団の自発的な学習活動といえよう。

【生涯学習の"場"と"機会"】
  次に、「生涯学習」の「場」つまり、"生涯学習のステージ"に該当すべき対象を示さねばならない。これには、家庭、小学校・中学校・高等学校(初等・中等教育機関)、さらに大学・短期大学・高等専門学校(高等教育機関)、自治体や教育委員会が運営する公民館、生涯学習センター、ならびに民間組織が開設するカルチャーセンターなどが、一般的な活動場所となる。また、この学習をサポートする一連の活動やプログラムの全体を「学習機会」と総称し、生涯の学習活動を促進する資源や学習機会が整備された社会が、「学習社会」と呼ばれるのである。

  それでは、「学習機会」や「学習社会」に影響を与えたものについて検討を加えるならば、それは"社会経済の変容"と"社会的ニーズの変容"が提起される。

【社会経済の変容】
  まず、"社会経済の変容"の枠組みの中でとらえられる、社会構造の変化であるが、これには注目したい動きが三点ある。 一点目は、国際化であり、一言に国際化といっても様々な意味合いがある。一般的にはかなり混同して用いられているが、国際化には「グローバル化」「ボーダーレス化」それに両者に誘因される「無国籍化」といった内容が考えられる。

  「グローバル化」は、ビジネス社会そのものがリアルタイムで変化し、マーケットの動きや政治・経済・外交や文化に関する情報も24時間眠らず、取引や交換が可能になった事実がある。加えて、日本企業の海外進出によって、現代の経営資源といわれる、ヒト・モノ・カネ・情報が世界を縦横無尽にかけまわることである。同時に、個人であっても企業であっても、これからの海外進出や外国との交流においては、前提となる基本認識が必要となる時代である。つまり、グローバル・パートナーシップ(相互主義の精神)やグローバル・スタンダード(世界的基準・標準)が求められる時代なのである。だからこそ、外国からの日本進出も日を追う毎に増えてきているのも、当然の帰結である。

  また、「ボーダーレス化」といって、国境を超えた経済活動や国際交流も盛んになり、企業の例で申すならば、従来のように安い人件費を求めて世界各国へ工場や事業・生産拠点を移して回るような出稼ぎ型の海外進出は、世界的批判の的となることは自明の理である。現在は、現地化といって、進出先の国々の人々を従業員のみならず、経営者として採用し、工場や会社には当該国の国旗と日本の国旗をならべて掲揚し、利益の一部をその国の文化や社会福祉活動へ寄付するなど、共存・共栄の事業展開が当然のごとく行なわれていることを意味する。  

  "社会経済の変容"に付加されるべきものは、「情報化の進展」である。高度情報化社会の到来と呼ばれて久しいが、昨今では、IT(情報技術)革命やIT時代といった言葉が、今なお日々のTVニュースや新聞報道で、取り上げられている。そもそも、このIT革命の中味と言えば、コンピューター、とりわけパーソナルコンピューター、略してパソコンと、情報通信技術とが一体化されたものである。コンピューター技術と情報通信網の拡張が融合し、高度かつ大容量の情報がいつ・どこにいようとも、瞬時に受け渡しが可能となり、ビジネスシーンや生活・ライフスタイルに大きな変革がもたらされている。e−ビジネス(電子経済取引)、e−コマース(電子商取引)といった用語が、巷間によく流布している。これらは、パソコンと通信ネット技術の融合によって生まれた"インターネット"であり、自宅や職場のパソコン画面上で瞬時に、国内はもとより世界各国との間で、モノやサービス・情報に関する売買取引、情報そのものを双方向的にやり取りできるものである。加えて、画像や音声が挿入されているものは、もはや常態化している。ところで、この技術用いて、 企業間で行われる取引形態をBusiness to Business、略してB to B と呼び、企業と消費者・利用者間で行われるものをBusiness to Consumer、略してBto C と呼んでいる。嘗て、社会人になるための基礎能力として、"読み・書き・ソロバン"と称されたが、今日ではパソコンを用いた"読み・書き・そろばん"が主流となる時代である。このように、パソコンをツールとして、いわば道具として用いることを、コンピュータ・リテラシーと呼ぶ。しかし、一方では、これを扱えるか扱えないかによって、社会的・経済的かつ職業的に差異が生じてくる。これを情報格差、デジタルデバイドと呼んでいる。日本では、比較的パソコンの扱いに慣れている若い世代と、苦手意識のある中高年齢層との、この面でのギャップを問題視して、各世帯へのパソコン普及率、及び操作技術の浸透に国も予算をつけて取組みをみせている。近時の自治体や教育委員会主催のパソコン講座が盛況なのも、このような政策措置(e-Japan戦略)を受けてのことである。IT先進国であるアメリカでは、既にパソコンの世帯普及率は目覚しく、これからはむしろ、貧困層や社会的弱者の情報格差解消に向けて乗り出している。いずれにしても、生涯学習者にとって、様々な学習活動の推進やイベントづくりにあたっては、パソコン操作やインターネット技術は是非とも備えておきたいアイテムでもある。

  さて、社会経済の変容に最も大きなインパクトを与えているものは、「少子・高齢化」である。日本の資本形成、あるいは将来の生産性を考えると、深刻なボトルネックであることは言を待たない。しかし、別の視点で高齢化社会という命題に向き合うならば、社会福祉や介護といった分野では、「ノーマライゼーション」が潜在的成長力を秘めたキーワードともなる。 つまり、高齢者や障害者などが、若者や健常者とすべて一緒に暮らす社会こそがノーマルである、とする「ノーマライゼーション」が新たな福祉の在り方や考え方を打ち出した。さらに、「バリアフリー」にいたっては、日常生活において障害となるものを改善・除去し、可能な限り自力や簡単な補佐・補助で、高齢者や障害者が快適に暮らせる空間・スペースづくりの概念、といったものが社会通念として導入された。これが教育界やビジネス界に新たなジャンルや領域を創出し、新規事業や新産業を創り出して、雇用機会をも増やす効果が認められる。

  尤も、中高年齢層が、総人口に主たるウェイトを占めることは、一見、国力や生産性を鈍らせるかのごとき誤謬に陥りがちであるが、日進月歩の技術革新によって、ともすれば苦役であった労働から、時代を追って人々が解放されている事実を忘れてはならない。確かに、昨今の情報技術に関する操作といったスキルの面では、中高年齢層に厳しいものがあろう。しかし、コンテンツの面では中高年齢層の保有する学識・教養・技術に、むしろ大いなる期待が寄せられるのも強ち否定できない。

  中高年齢層の比較優位の分野には、日本の伝統文化、茶道・華道・書道・香道・柔道・剣道・空手道、あるいは絵画・邦楽・俳句・舞踊・篆刻など、日本の伝統文化や郷土の歴史・習慣・祭事・工芸・技能と、細かく個々の名称を挙げれば、相当に専門分化された領域が存在する。 

  これらのものの多くは、学校教育では充分に後世に伝えきれないものが多く、中高年齢層は、日本の素晴らしい伝統文化や精神文化の伝承者・伝道者として、十二分にその資質・能力を発揮できる「場」や「機会」が求められて当然である。

  戦後の復興期から欧米へのキャッチ・アップ、さらには国際社会への復帰と、昼夜を厭わぬ、先人・先達・先輩諸氏の献身的な成果が結実し、今日のわが国に繁栄基盤が齎されたことは論をまたない。

  ところが、物質的に豊かになる反面、20世紀末より今世紀に入っても悲惨・凄惨な事件・事故が相次いでいる。これらの社会的病理や悲しむべき現象の多くは、物質至上主義もしくは、効率至上主義型社会経済システムに依存しすぎた、副作用であり歪みでもある。

  これからの時代は、単に物質的な豊かさを追求するのではなく、モノにしてもサービスしても、情報にしても、それらを単品・パーツといった部品・素材として乱雑に消費してはならない。常に人間が自然環境と調和を図りながらも、人間らしく生きる上で何が本当に必要なのか、といった本質的吟味や原点回帰といった思考過程が肝要となる。

  地球や自然といった環境の中で、育まれ培われる人類として、森羅万象生きとし生けるモノの生命とみ御恵みに対する、畏敬の念や感謝の気持ちを忘れてはならない。この人間として尊い道筋を踏み誤らないためにも、先人たちが築かれた思想・哲学、伝統・文化、学術・文芸といった、精神文明への回顧や精神文化の昂揚が強く求められる。 このような時代の趨勢は、次なる"社会ニーズの変容"からも、検証することが可能であろう。

【社会ニーズの変容】
 図Tを参照されたい。これは、経済界における経営者の多くが、ビジネスを展開する上で、今なお必読の書に挙げておられる、アブラハム・マズローという心理学者の著作『人間性の心理学』より抜粋した、人間の欲求の移り変わりを示したものである。

  A.H.マズローは、人間が生活を営む上で不可欠な「生理的欲求」を狭義のニーズと位置づけ、それらが満たされると「安全の欲求」「所属と愛の欲求(愛情の欲求)」が起きると指摘している。やがて、それらは高次の「承認の欲求(尊敬の欲求)」へと移り変わり、すべてが整うと「自己実現の欲求」へ到達すると述べている。

  彼は、「承認の欲求(尊敬の欲求)」「自己実現の欲求」ともに"ウォンツ"と位置づけ、これらは自己を取り巻く社会的環境との対応関係から生じる欲求であり、これらは社会的欲求とも呼んでいる。このように高次の欲求へと移る人間の心の在り様は、次のように置き換えて考えることも、可能であろう。すなわち、「生存のレベル」から「実存のレベル」への移行である。

  「生存のレベル」とは、"基本的な欲求を満たされなければならない"であり、これが満たされた後には、「実存のレベル」と言われるもの、つまり"精神的・文化的欲求にも応じ得るもの"へと、人間社会の価値観が変容する事実として理解されるであろう。 これを社会生活の進展に置き換えると、この"充足"から"向上"へと向かうトレンドは、「生活の維持・所得の向上・生活物資の充足」いわば、物質至上主義・モノ志向型から「参加・交流・ゆとり・自由、そして生活の質的向上」へと向う、まさに、精神尊重主義、精神志向型・心重視型への移り変わりを示唆したものと考えられる。その究極的な目標こそ、まさにこよなく自らを高める「自己啓発」であり、「自己実現」への着手が可能となった時代の到来といっても過言ではない。


【学歴社会の変化】
  このような変化の兆しは、これまである種、評価・判定してきた社会、つまり学歴社会そのものが、変貌を遂げようとする証といえよう。すなわち、これまでの人間は、教育との関わりにおいて、小学校・中学校・高等学校、あるいは専門学校・短期大学・大学といった、学校教育の枠組みの中で、決められた年代におって修業年限を積むことが求められていた。

  そのような時期を家庭の事情や経済的負担、あるいは本人自身の考えや事由などから、一度、教育制度の定められた区分から外れると、なかなか自ら再び教育を受けることや進学においては、時間的かつ費用的にも相当困難なハードルをクリアーする覚悟が必要であった。
また、仮に自ら学問をひもとくとしても、それら"場"や"機会"そのものが、日々の仕事や家業に負われてままならない時代背景でもあった。それと同時に、人それぞれが経てきた学校教育や、はては偏差値に基づく学校間格差によって、個人の資質・能力が認められにくい環境にもあった。

  嘗ての学歴とは、「どこで学んで来たかという学歴(学校歴)」そのものであったが、生涯学習の胎動によって、世はまさに「何を学んで来たかを問う学歴(学習歴)」へと、学歴そのものに新たな風穴があけられたのである。こうなると、ますます生涯学習への期待が高まり、その成果が適切に評価されなければならないのである。

【生涯学習への期待と成果】
 生涯学習では、"場"と"機会"が重要な役割をもたらす。数人から大勢の人まで集うには、それなりの場所が必要である。しかし、単なる"場"の提供のみでは、期待される学習効果は空虚なものとなる。本来、その活動シーンとなる"場"にある種の共有の目的・目標を掲げた理念や趣旨、あるいは内容や中味といった教育・学習プログラムの展開が求められる。加えて、学習者の知的欲求や発表・表現の意欲を満たし、学習活動への参画・参観・見学を目的とする来場者に、感動や感銘を与える人的・物的サポートが必要となる。さらに、その学習活動の輪が広がる効果を伴ってこそ、"学習機会"の創出・継続性といった、学習成果が認められる。この"場"と"機会"を縦糸・横糸として、生涯学習の生地を織り込めるものが、文化・学習イベントやサークル活動といった機織り機によって可能となる。

  生涯学習には、潜在・顕在を問わず、人間の資質・能力を高めるエネルギーが秘められている。それは、私たちに学習への取組みを通じ、生き甲斐・遣り甲斐・働き甲斐を与えると共に、人々との交流や出会いにおいて、自らの知的好奇心が喚起され、様々な学習体験が自己啓発や自己実現に向けたパワーの源泉となることである。人間の資質・能力を高める法則に、"KAEの法則"と称するものがある。"K"とは、Knowledge(学識・知識)であり、これに基づく"E"を示すExperience(体験・経験)が積まれますと、"A"すなわちAbility(能力)が備わって、人間をより高次の目標に向かわせるといった内容を示唆したものである。生涯学習は、われわれに学習の"場"と"機会"を与えてくれるものであるから、机上で学んだものは、実践・実行に移す。これに基づいた経験・体験は、技術や技能、ノウハウ、あるいは自己のデータベース(知的集積)となって、自らの能力として蓄積されるのである。

  この意味からも、何らかの学習イベントに着手することは、これら相乗効果と相俟って、自らのみならず、広範囲な参画者・参加者のほとんどが、その知的刺激の恩恵に預かれることになる。本論の帰結として、人間の一生涯において生涯学習の活動に従事することが、充実した人生を過ごすに当たって有効であるかを、ユングとレビンソンの"ライフサイクル論"によって推奨したい。

【ライフサイクル論】
 ライフサイクルの心理学的研究は、ユングに始まった。図Uユングのライフサイクル論を参照されたい。彼の説く"ライフサイクル論"とは、人間の一生を太陽の一日の運行になぞらえ、独自のライフサイクル論を展開した。人の一生を四つの時期に分け、ある時期と次の時期の間には「転換期」と呼ぶ時期が存在するとした。

  最初の四半期は「少年期」、この時期は自己を客観的に思考できにくいとして、問題の少ない時期と位置づけた。同様に、最後の四半期「老年期」も、人の自己意識の状態が次第薄れ執着が少なくなり、問題の少ない時期と考えていた。ユングが人間の生きる上で問題が多いとして指摘し注目したのは、「成人期」と「中年期」である。彼は、人生の午前(前半)から午後(後半)への移行期となる「中年期」の転換期が、人生最大の危機に陥りやすいと説く。

  人生の午前では、自らが上昇していくことを自覚し確認できる。身体も成長し、体力も強化され、交流するべき世界も広がる。よって、午前の意義は「個体としての発展」、外部の世界における「定着と生殖」、さらに「社会的達成」である。やがて、正午より下降が始まり、午前の価値が「理想の転倒」として捕捉される。人生の午後は、午前と同じプログラムで生きる術を許さない時期である。人生の午後をユング流に課題として設定するならば、自己への真摯な取り組みと思考を要し、人生の前半で看過してきた自己分析に着手し、自己のパーソナリティーの充実につとめることで、これをユングは「個性化」と呼ぶ。ユングの説に従えば、「中年期の転換期」は、これまでの生き方や価値観の転換を必要とする。よって、転換期はマイナス面をもった危機の時期と同時に、取り組み如何によってはプラスに働く充実の時期ともなる。

  一方、レビンソンは、ユングのライフサイクル論が指摘する「転換期(過渡期)」について、2年間にわたる面接調査を施し、その存在を実証的に研究した。その結果、ユング同様、ライフサイクルに四つの発達期を検出した。「児童期と青年期」(0から22歳)、「成人期」(17から45歳)、「中年期」(40歳から65歳)、「老年期」(60歳以上)に区分した。いずれの時期も重複する期間が存在し、これを「転換期」ないし「過渡期」と呼んでいる。このような人生の狭間ともいうべき時期にあっては、体現される生活様式や取り巻く生活構造の中で、いかなる世界や社会との交流を持つか、どのような人間関係の構築に注力すべきかといった、いわば人生観や自己の課題意識の醸成が、自らの暮らし向きを豊かにする意味で大切なものであることを示したものである。

【むすびにかえて】
 生涯学習に対する期待は、レヴィンソンの『人間の四季』で語られている内容が、示唆するところである。それは、季節と同じように人間にも人生という四季があり、身体的には年とともに衰えるものの、こころはむしろ豊かになって、周囲の環境とお互いに交流し合うようになる。主体的な学びや生きがいの発見・発掘は、人生においてどの段階からでも、新たなステージの出現が可能であることを物語っている。

  このような取り組みがごく自然にできるような社会が実現すれば、とかく閉塞感の漂う世の中にあって、人々は精神的な自由や開放感を満喫できる時間を得て、心が癒され心身ともにリフレッシュできるであろう。それは同時に、今後、自己責任原則が前提となる社会において、さまざまな学習体験が確かな知識・教養を涵養し、さまざまなリスクへの対応やヘッジが可能となる。況や、生涯を通じての自学自習や互学互習を妙味とした、実践を伴う生涯学習活動が日常化・常態化されれば、老若男女を問わず誰しもが人生の逞しき冒険家となりえるであろう。ややもすれば「教育」そのものへの制約条件となっていたのは、旧態依然とした学校教育制度や陳腐化した教育課程であった。しかし、それらが今次抜本的に見直され、大幅な弾力化・自由化の措置が施されるに至ったのは、時代の要請や社会のニーズの変容が、「学習」という理念や機能に、大いなる飛躍に向けて期待を寄せた証ともいえよう。

  生涯学習は、いつまでも夢と希望と感動を追い求める心若き知的探求者として、人々の人生や生命を輝かせることになると確信する。


「参考文献」
・『生涯教育について』ポール・ラングラン著、波多野 完治訳、日本ユネスコ国内委員編、1967年
・『生涯学習の展開』吉富 慶一郎・国生 寿編、学文社、2000年
・『学びのスタイル‐生涯学習入門』赤尾 勝己・山本 慶裕編、玉川大学出版部、2000年
・『学びのデザイン‐生涯学習方法論』赤尾 勝己・山本 慶裕編、玉川大学出版部、2000年
・『臨床ユング心理学』山中 康祐著、PHP新書、1996年
・『改定新版人間性の心理学』A.H..マズロー著、産能大学出版、1987年
・『人格心理学』放送大学