〜 第二部 〜
インターシティー・ミーティング



〔2〕

 最初、普通の木のドアだったと思いますが、段があって、その中に紙のドアがありました。そこには1人、60過ぎぐらいの行儀の悪そうな方がおられまして、浴衣姿でした。私たちはお互いに「このおじさん行儀悪いね。」と言いながら、お番頭さんかなと思って、そこでいつスポンサーが来るかなと思って待っていました。その間にお茶を出してくださったんです。それで、小さい茶碗に半分ぐらいしか入ってない緑の液体が出たんですけれども、先生は私たちに「これはお茶だから召し上がれ。」とおっしゃったんです。私たちはまず、共通の認識だったと思うし、少なくとも私自身の日本人に対する第一印象は、日本人は何とケチだろう、お茶碗そのものが小さいのに半分しか入ってない。普通、皆さんが中国へいらしたり、あるいはインドへいらしたりすると、なるべくお客さんに対してはいっぱい入れるのが礼儀です。ですから、日本人に対する私の第一印象は、日本人は何とケチだろうということです。
それともう一つは、チベット人は、恐らく中国人もインド人もそうだと思いますが、日常生活でも非常に縁起担ぎをするんです。その人間の行動パターンは、例えばインドの政治の最高の地位にあったインディラ・ガンジーという総理大臣は、毎日占い師に伺ってからサリーの色を決めていました。アメリカでも、例外かもしれませんが、レーガン大統領は何か大きなことを決めるときには占い師に頼っていた。私たちの日常生活においても、縁起ということが人間の価値基準に大きな影響を与えています。私たちは、茶碗に半分しか入っていないから、日本において自分たちの目的は半分しか達せない、つまり中途半端になってしまう、途中で死ぬかもしれないし、何かとにかく縁起が悪いと思いました。
 そこで何をしたかというと、般若心経を唱えました。般若心経の短いお経の中に無い、無いというのが7回か9回ぐらいあるんです。1回今度ちゃんと数えないといけないですね。7回か9回というのは、大学の教授としては正確ではないかもしれません。そして指を9回鳴らすんです。9回鳴らして、あると思えばあるし、ないと思えばない、すべては気持ちの問題だから、これはいいように解釈しなければならないということで自分を慰めるわけです。それでお茶をいただきました。
 お茶をいただいたらホッとしたんです。非常に苦くてまずいんですけれども、先生はチベット語の発音は非常にうまいし、言葉もうまいけれども、お茶と薬を間違ったなと思ってホッとしたんです。チベットではことわざがあって、「どんないい薬でも飲み過ぎたら毒になる。」ですから、私たちは誰も2杯目はいただかなかったんです。
 なぜ、今皆さんに最初からこういうくだらない話をするかといいますと、例えばお茶一つ取り上げても、ティ、チャイ、チャ、チャー、お茶、ほとんど同じような発音で世界じゅうで使われています。しかし、そのお茶という言葉で私たちそれぞれが頭に浮かぶ、自分がイメージするお茶、飲んでいるお茶は違うんです。例えばチベットの場合には、紅茶の中に牛乳を入れて、バターを足して、さらに塩を入れてかき混ぜて飲むんです。これを日本の友達に飲ませると、「ああ、このスープおいしいね。」とおっしゃるんです。そのときチベットでは「おまえは馬鹿か。」と言いたいんだけれども、確かに私が今飲んでもスープみたいなものです。しかも、日本の夏、チベット人である私がそのお茶を飲んでも、酸っぱいものが上がってきて、体が受け付けないんです。やはり日本の夏は、コーラよりも、あるいはその他最近はたくさん発見していますが、いろんな冷たいものよりも、私は温かいお茶の方が一番ありがたいです。
 お茶一つを例にとっても、皆さんがインドにいらしたら、駅などで土のポットの中に入ったお茶が売られていて、今だったら日本円3円ぐらいで1杯飲めるんです。物すごい甘いです。さらにモンゴルへ行くと、今度は牛乳にお茶を入れる。もちろん中国にはジャスミン茶を初めとして中国のお茶もある。ですから、私たちは異文化コミュニケーションする場合に、言葉は同じ言葉を使っていても、多分そのそれぞれが時と場合によって頭に浮かんで自分でイメージするものも、理解するものも違ってくるわけです。
 去年の秋ぐらいだったと思います。もしかすると皆さんもご覧になっているかもしれませんが、私はあるテレビ番組に出ました。かなり夜遅い時間でした。その内容は、ある大きな会社の人事部長をやっている人が同僚の首を切らなければならないという、非常に苦しい決断をしなければならないという場面で、彼は非常に苦しんで、最終的には仕方がないから自分は辞めようという決意をするんです。それで、最初は友達を誘って焼鳥屋へ行って2人で飲んでいるんです。そこで友達に、今会社からあなたを首にするようにということを言われたとしゃべろうとするんですけれども、彼はそれを友達に言えないんです。そこで彼が決断したことは、自分が辞めようと思って、お寿司か何か途中で買って、半分酔っぱらって家へ帰るんです。
 家へ帰ると、奥さんがまだ待ってくださっていた。それで彼はちょっと酔っぱらっているから、奥さんはお水を持ってきて、そこで彼は彼女にそれを言おうとする。言おうとするんだけれども、その瞬間、また言えないんです。奥さんが「何?」と言うと、彼は心の中が苦しいから、「愛してるよ。」とおっしゃるんです。この「愛してるよ。」とおっしゃったときに、テレビの画面では奥さんがちょっと照れくさい顔をして、「馬鹿。」と言うんです。
 私は学生たちに言うんですけれども、「皆さんはこの馬鹿という言葉を英語でどう訳しますか。今私が見たような場面において、そういう状況において、この馬鹿というのはどのように訳しますか。」辞書を引くとstupidとかいろいろ書いてありますが、少なくとも“I love you."とは書いていないと思います。でも、私があのテレビを見ている場面において、その奥さんの言葉を理解している限りでは、英語で“I love you too."と訳してもいいと思ったんです。つまり、私たちがコミュニケーションをとる、特に違う文化、違う価値観の中において、直訳したら“I love you."と言われたお返しに、“You stupid.(あんた馬鹿)"と言われたら、全く違う意味になるんです。しかし、日本という社会を理解して、日本人を理解して、日本の文化を理解すると、この「馬鹿」は決して自分の旦那さんのことをお馬鹿さんと言っているのではないんです。奥さんはうれしそうにしていました。
そのとき奥さんがもう一つ言ったのは、「どうしたの?」ということです。ふだん日本人は言わないから。逆に、私はかつて米軍基地のボーイスカウトのアシスタント・スカウトマスターを少ししましたが、旦那さんは帰ると奥さんに1日に5〜6回は“I love you."と言っています。そう言いながら、すぐ怒って冷蔵庫まで蹴飛ばして夫婦げんかしているんです。
 私は、どっちかの文化が正しいということで今話しているのではないんです。ややもすれば、この国において異文化コミュニケーションということを少し誤解しているのではないか、あるいは国際化、国際理解ということを、何か外国人の友達がいること、外国語をしゃべることができれば、それで済むと思っているところがある。しかし、大事なことは、価値観を理解する、相手の文化を理解する、あるいは相手の人間性を理解する、そういうところに異文化の本当のコミュニケーションがあるのではないかと私は思います。
 そもそも1965年、私が日本に来たころ、埼玉から東京まで年に2回、ビザの更新に行かなければならなかった。そうすると、電車の中で、当時はまだ日本の大学生は学生服を着ていました。特にまじめな学生はそうだったと思います。そして電車に座っている学生は、分厚いシェークスピアとかモームとかハクスリーとか、そういう本を読んでおりました。私たちはうれしくてしようがないです。この人だったら英語をしゃべるなと思って、近寄って、「すいません、どこそこへ行くんですけど……」と言うと、その学生は首が七面鳥のような赤くなって、どもり始めて、最後に私たちの目的地までちゃんと送ってくださいました。そのぐらい、日本という国は、当時は英語ができなかったんです。外国語ができなかったんです。



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