〜 第二部 〜
インターシティー・ミーティング



〔3〕

 私たちは、日本人は外国語音痴だと思っていました。特にLの発音とかRの発音は日本人はできないもんだと勝手に決め込んでいました。日本人自身も、「私たちの言葉にLがありません。だから、I rub you も I love you も同じだ。あなたをこすることも愛することも同じだ」と言うんです。
 でも、1970年に大阪万博がありました。鳥飼玖美子先生、西山千先生、そういう先生方が流暢な英語で同時通訳なさった。少なくとも日本人はLの発音ができないわけではないということを初めて発見しました。最近では英語をしゃべれる人ははるかに多いです。大学の先生でも私より先輩の先生方は、国際会議にいらっしゃると日本的発音で読むんですけれども、難しい単語はたくさん知っています。しかし、若い先生たちはかなりアメリカ人みたいにしゃべります。でも、それによって日本の国際的地位、信頼度が高まったかというと、私は高まっていないと思います。むしろ私たちが留学生として来たころの方が、日本人に対する尊敬の気持ち、信頼度は高かったような気がします。
 私たちが風邪を引いて学校を休むと、英語がほとんどわからない同級生のお母さんが、何か甘酒に卵を入れたりして持ってきてくださって、「これをちゃんと飲めばあなたは元気になる。」ということを理解できるように言ってくださる。単語の意味はわからなかっても十分に理解できるものがあったんです。そして私たちが八百屋へ行くと、当時はラーメンをパックで売っていました。12円か20円だったか忘れましたが、それを買いに行くと、おばさんはタマネギをくださって、「これを切って入れるとおいしいよ。」ということを身振りでおっしゃってくださったんです。
 それから、私たちが学校へ行って帰ってくると、埼玉の毛呂山というところは特に兼業農家の人たちが多かったものですから、私たちが学校が終わるころ、奥さんたちが畑仕事を終わって帰ろうとする。でも、私たちがあいさつすると、向こうも自転車から降りて、頭に巻いているタオルみたいなものを取ってあいさつをしてくださった。そうすると、私たちも何となく自分たちのおばあちゃんやお母さんと同じように感じるんです。言葉そのものはわからないけれども、あの人はいい人だなということはわかるんです。この町で私たちは歓迎されているということを感じるんです。この町の人たちは私たちに対して一生懸命保護をし、居心地いいようにしようとしてくださっていることを感じるんです。
 そのような中において、相手の人間に対して、少なくとも当時は白人、黒人、あるいは僕たちの場合には「外人さん」と呼ばれるけれども、接する人間そのものは、人間として相手が風邪を引いたらどんな苦労するだろうか、言葉がわからないということはどんなに不便だろうかということを読み取ってくださる。気持ちを読み取ってくださる。ですから、私たちは言葉ができなくても全く不自由を感じなかった。いつの間にか気がついたら日本の社会で普通に日本語をしゃべって生活をしていました。
 恐らくこれは世界じゅうどこへ行ってもある意味では共通だろうと思います。それは私たちが黒人、白人、金持ち、貧乏という言葉を使っていいのかどうかわかりませんが、金持ちでない人、頭のいい人、頭のよくない人、私たちの中で固定概念としてさまざまなものができてくればくるほど、私たちの間のコミュニケーションが難しくなる。ですから、冒頭に申し上げましたように、コミュニケーションにおいて言葉そのものの役割はわずか30%にも足らない。もっと大事なことは、それぞれの知性だと思います。ましてや、国際社会において──国際社会だけなくて、人間同士でも、どんなきれいな言葉で語って相手を一時的に説得したとしても、その人から信頼され、そして尊敬されるためには、言葉に伴う実行力があるかどうか、約束事を守れるかどうかだと思います。
 私の国の偉いお坊さんのお嬢さんたちとそのお坊さん自身が1972年ごろ、日本に見えました。日本の銀座のホテルに泊まって、私たちは上の階でフランス料理を食べていました。すると、偉いお坊さんのお嬢さん2人が化粧箱を出して化粧をし始めたんです。そうすると、向こう側に九州から見えたお医者さんのグループがおられまして、私がトイレへ入ると、ちょっと酔っぱらっている先生の1人見えまして、私に2万円を渡して「あの女の人たちを紹介しろ。」とおっしゃるんです。私は2万円取ったんです。ちょっと頭へ来たから、「はい、待ってください。」と言って帰って、2人の女に言ったんです。「あなたたちのおかげで私はとっても恥ずかしい目に遭った。あなたたちがこんな公の場でまるで別の職業の人間であるようなしぐさをしているから、あそこにいるおじさんたちがあなたたちを買いたがっている。もちろんあなたたちはそういう人ではないことはわかっているけれども、あなたたちのやっていることが相手にそういうふうに思わせている。私はとにかく相手のおじさんたちにはわざと待ってくださいと言って、2万円だけ自分で取った。」これもコミュニケーションの一つです。彼女たちは、多分彼らにそう思わせるようなことをしたんです。しかし、最近、国際化社会における日本の社会を見ると、電車の中だろうと公の場であろうと、国際化社会の進んでいるはずの人間が平気で化粧をしている。これもコミュニケーションです。
 しかも、普通、コミュニケーションというのは、一番多いのは自分自身との対話です。朝起きたとき、恐らく皆さんはきょうの天気、きょうの予定は何であるかと、自分自身とコミュニケーションをして、そして服装を決めると思います。きょうはお葬式に行く必要があれば、お葬式に行くような段取りをすると思います。自分自身の1日の行動に対して、まず自分自身とコミュニケーションをとると思います。そしてさらに、昔だったら、夜寝る前にきょう1日の反省をすると思います。瞑想すると思います。自分自身のきょうの1日の行い、行動、言葉、特にチベット仏教の場合には毎日自分の言葉を反省することが一番重要視されます。自分の言葉によって人を傷つけたか、自分の言葉によって不必要な人間関係を生むようなことになったか。そのときは必死でわからないですから、自分自身とのコミュニケーションをとる。今は多分、自分自身とのコミュニケーションが少ないと思います、他人とはともかくとして。
 電車の中で平気で化粧する女性、あるいはレストランで平気で化粧する人は、どんな美しくても、その人自身の品位が問われる。そうすると、せっかくいい服を着て、ブランド品を身にまとっても、その人自身の価値は出てこないです。私は自分の学生たちに言っているんです。学生たちがブランド品を持っていると、少なくとも外国人が見たら、「あなたたちはとんでもないアルバイトをしていると思われる可能性がある。そうじゃなかったら、あなたたちの親はとんでもない大馬鹿者で、金持ちだ。お金だけ持っているかもしれないけれども、世の中のことを知らない人だ。まして、今あなたが真珠を首につけても、誰も本物だと思わない。あなた自身がある一定の年齢になって、そして真珠が似合うときが必ず来るはずだ。それまではあなたはあなたに最もふさわしい、例えばきれいなガラスだとかそういうものを自分でつけたらいい。あなたの一番の化粧はあなたの若さではないか、初々しさではないか。それをあえて真珠のネックレスを首にかけても、かえってあなた自身の品位を落とすこと以外何もない。」
 同じようなことは日本の大人に対しても言えます。あるとき、1980年代だと思いますが、東京の赤坂プリンスのロビー、ここは一時、とにかく小さいオーストリッチのカバンを持って、そして十四金の時計をした人たちでいっぱいだったんです。もちろんその人たちはその人たちなりに苦労をしてそういう財産を手に入れたということに対しては、尊敬の気持ちを持っています。だけど、国際社会で考えた場合に、もちろんそういう服装をしていく場所もあるでしょうけれども、ふだんからオーストリッチの何十万かするカバンを持って、そしてある年齢とか全体的な調和のとれているものであれば別ですけれども、そうでない場合には、かえってそういう人たちの場合には信用が失われるんです。一時的な金持ちにしか見えないんです。その人が本当の金持ちであれば、服装にしてもまたちょっと違ってくると思うんです。
 ですから、異文化コミュニケーションは決して言葉だけではないです。服装もそうです。あるいは自分自身のしぐさ、態度もそうです。エレベーターを降りたときに人に「お先にどうぞ。」と言えるかどうか。出てくる前に入っていく人の方が先に入ってしまったら、自分自身を語っているようなものです。したがって、異文化コミュニケーションは、先ほど申し上げましたように話術だけではない。幾ら外国語ができても、外国語をしゃべったからといって尊敬されるものではないと思います。
 日本においては、CI(Corporate Identity)という言葉が1970年代の後半あたりからはやりました。そして会社の名前も横文字になったりカタカナになったりする時代に入りました。世界の中において日本の物がブランドになった。少なくとも1970年代の後半、80年代までは、日本の車、日本製の時計、カメラを初めとして、Maid in Japan というものが一つの信頼を勝ち取ったんです。ですから、世界じゅうどこへ行っても、ただ単に日本の物を持っていることがすなわちステータス・シンボルになるからだけではない。それは確かに第三世界──インドネシアなどに行ったら、日本の物の方がステータス・シンボルだったと思います。だけど、それ以外に、日本人がつくったものであれば……という信頼があったと思うんです。それはどこから来るか。それは多分日本人の仕事に対する倫理、責任感だと思います。



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