〜 第二部 〜
インターシティー・ミーティング



〔6〕

 今、小泉さんは確かに頑張っています。頑張っていますけれども、私たちチベット風で言うと、熊の自己治療というか、チベットではチェモ(雪男)は人間として考えてないんです。立って歩ける熊のことを言うんです。この雪男を人間がたまに鉄砲で撃ったりすると、痛いことがわかるから、自分で肉をちぎってつけるんです。だけど、結果的にはもっと血が出て、最後には出血多量で死ぬんです。痛いということだけはわかるから肉を取るんです。今、小泉内閣がやろうとしていることは、まさにそういうことです。計画性がない。国民全体が暗黙の了解として見えてくるビジョンがない。そこで世界とのコミュニケーションがとれないんです。総理大臣が幾ら北朝鮮へ行って握手して、1回世界じゅうの新聞に載っても、それだけでは足りないんです。国連に行って人権のことをしゃべっても、平和ということを言っても、平和の中で暮らしている人の言葉だけでは、今直接戦争をやっている国々にとっては説得力がありません。
 そういう意味で、日本からITを発信するとしたら、日本ならではのもの、日本の経験、体験、日本の文化などを含めてやるべきだと思います。もちろん、異文化コミュニケーションにおいて、すべての文化、すべての宗教は、その場所、ある時代においては有効性があると思います。ですから、この宗教がこの宗教よりも優れているとか、あの文化はこの文化よりも劣っているとか、それはないと思います。なぜならば、文化というものは、そこに住んでいる人たちが一生懸命やって、いかにして自分たちが少しでも便利な生活をするか、いかにして今日よりも明日幸せになろうかという工夫の結晶です。
 最近、100年前のこととか50年前のことを裁いたり、判断したりする人たちがいます。これは私は極めて馬鹿げていることだと思います。そのときに、その時代に正しかったことが、今日正しくないこともたくさんあると思います。聖書には、「子供のときは子供のように振る舞い、大人になったら大人のように振る舞う。」という言葉がありますけれども、その時代、その自然環境、歴史的背景、宗教的価値観、そういうものによってすべての人たちが一生懸命生きようとしている。それに対して私たちが一方的に、これが上であって、これが中であって、これが下であるというような番付はできないと思います。 50分までに私の一方的な話を終わらなければなりませんので、多分私の時計は2分ぐらい早くなっていると思いますけれども、そろそろ一方的な話は終わりにしなければならないんですが、きょうこのようなすばらしい機会を与えてくださいましたので、私は皆さんに申し上げたいことは、もっと日本が、言葉ではなく、態度で世界の信頼を勝ち取るようなことをしてもらいたい。そして国際化とかグローバリゼーションということは決して同化でもなければ一本化でもなければ、コピーするものでもない。グローバリゼーションだからこそ多様性が必要だと思います。その多様性の中において何が必要かというと、やはりアイデンティティ、個性であり、その個性を裏づけるもの、根づかせるところには、もっと精神的なものが必要だと思います。
 今、日本が21世紀をどう生きていくか。一時的には会社を中国に持っていって、労働賃金が安いからといって、それで済むかもしれません。しかし、中国もじっと待っていないです。私が日本に来たとき、日本人の大学卒の人たちの給料は3万円ぐらいでした。しかも、人間に癖があるように、民族にもある程度潜在的な癖があります。野望があります。そういうことを考えた場合に、中国に一時的に投資して会社を何とかすることもいいかもしれませんけれども、それは究極的な救済にはならないと思います。
 そして、私が例えば私の母親のことをとても愛していて、母が病気になって死んでいくときに、できたら私がかわりに同じ体験をしたくても、できないんです。それは私たち一人一人の自分の運命というか、自分自身が100%かわることはできないです。もちろん、場合によってはそれ以上は心配はするかもしれません。それと同じように、今日本の置かれている状況について、先進7カ国の首脳会議があるたびにアメリカから言われていることは、それは日本のためではない。もう一回皆さんが先進7カ国の共同コミュニケを読んでいただきたいんです。少なくともこの20年間ぐらい、日本が停滞し、衰退している原因の一つはそこにあるということです。
 しかし、日本のマスコミは、総理大臣が真ん中に立っているか端っこにいるかということしか書かないんです。この前、韓国へいらしたときも、金大中が空港に来てないということをテレビで何回も言っていましたが、あれはいかに日本のマスコミが勉強してないかということです。金大中は同時に国家首席、国家元首です。日本の総理大臣は政府の長であって、国家元首ではないんです。だから最初から国民にそういう余計な期待をかけさせること自体が問題の本質を変えることだと思います。
 悪い言葉かもしれませんけれども、日本の社会は、少なくともこの50年間、直接選挙がなかった。そして明日どうしようかということを今晩心配しなければならない人たちが、もちろん最近は増えてきましたが、長い間いなかった。だから、自分のことも他人のことのようにしか考えなくなっています。そのような形では、本当のコミュニケーションはできないです。
 そういうことで、一方的な話はこれで終わりにしたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)

 副SAA茨木孝一 ペマ・ギャルポ先生、ご講演ありがとうございました。
 それでは、ただいまより質問タイムに移らせていただきたいと思います。ご質問は11ロータリークラブの会長様にお願いしたいと思います。まず初めに、岸和田東ロータリークラブ・山口英之会長よりよろしくお願いします。

 岸和田東ロータリークラブ・山口英之会長 日本に来て何に一番驚きましたでしょうか。

 ペマ・ギャルポ博士 お風呂が一つです。でも、何よりも驚いたのは、公衆電話が毎日同じ場所にあること、そして駅の前のベンチが落書き一つなく毎日同じ場所にあること。多分日本以外のところだったら、公衆電話は電話機ごとなくなるし、駅のベンチは誰かが何か書いていると思うんです。それは本当すばらしいと思いました。

 副SAA茨木孝一 ありがとうございました。
 続きまして、岸和田北ロータリークラブ・善野菊雄会長、よろしくお願いします。

 岸和田北ロータリークラブ・善野菊雄会長 日本人を理解できないと思ったことはございますか。

 ペマ・ギャルポ博士 強いて言えば、なぜこんなに謝罪ばっかりするかです。日本の場合には、ちょっと通りたいときでも「ごめんなさい。」と言いますが、外国だと、謝罪するということは懺悔することなんです。だから、1回謝罪するということは非常に重い言葉ですので、そういう意味で少し理解できないですね。
 例えば50年前に起きたことに対して、なぜ今の人たちが謝罪しなければならないか。明治維新までさかのぼると、世界じゅうで仇をとることは許されていたんです。それはいいことだった。だけど、近代国家になって、近代法に基づいては国が、あるいは司法がかわって裁いてくれるから、直接私たちが仇をとるとか、そういうことをしなくてもいいわけです。しかも、それは国によってやった人だけを裁くというのが普通のことです。日本がやったことのいい・悪いはまた別問題としても、やってもいない今の世代の人たちが、まるで犯罪者の子供のように謝罪するのは、僕は過去の人たちに対しても大変失礼だと思うんです。日本は東京裁判のもとで1,080名の人たちが死刑になったんです。もしそれで済まないんだったら、まずこの1,080名を生き返してこそだと思うんです。だから、私は、なぜこれだけ謝るのか、それだけは理解できないです。

 副SAA茨木孝一 ありがとうございました。
 続きまして、岸和田南ロータリークラブ・望月満慶会長、よろしくお願いします。

 岸和田南ロータリークラブ・望月満慶会長 これからの日本には何が必要だとお考えになっておられますか。

 ペマ・ギャルポ博士 私は、もう一回日本人一人一人が高度な倫理観を取り戻してもらいたいと思います。恐らく政府がどんなにすばらしい企画を立てても、今のように国民と政府の間の気持ちが離れているし、ましてや、かつては官僚の人たちは国のためのサーバンツ(公僕)として目標がはっきりしていたと思うんです。これも最近、マスコミによって意図的に破壊されてしまって、多分きょうは精神科の先生もいらっしゃると思いますが、今、霞が関の各役所には精神科にかからなければならないような病気の人たちがたくさんいるんです。だから、もうちょっと国民全体がわかりやすい一つの目標を見つけることだと思います。
副SAA茨木孝一 ありがとうございました。

 続きまして、貝塚ロータリークラブ・福原 弌会長、よろしくお願いします。

 貝塚ロータリークラブ・福原 弌会長 現在の日本人に欠けているものは何とお考えでございましょうか。

 ペマ・ギャルポ博士 60歳以上の方と以下の人を区別しなければならないかもしれませんけれども、私は、60歳以上の日本人は本当に尊敬しているんです。50ぐらいまでの人は半分半分です。40以下の人たちは余り尊敬してないんです。もう一つ言い換えれば、45から55ぐらいの人たちは余り尊敬してないんです。なぜかというと、今の子供たちはその人たちを示している鏡のようなものだと思います。今の平成の若い人たちに一番欠けているのは道徳です。だけど、道徳観のない平成人の日本人を私が幾ら責めても、それは、70年以後お母さんが少し金持ちになった、おじいさんたちは戦争に行って苦労した、だからとにかく子供を甘やかすことだけをやった。私が日本に来たとき、さっき言ったように、公共心、道徳心があって、世界一安全な国だったんです。今、世界一不安全な国になりつつあります。なぜかというと、最初から不安全な国の場合には、不安全だということがわかっていますから、それなりの対応があるんです。自分の荷物は自分が管理することは当たり前だと思っているけれども、日本の場合はこの2つがあるんです。
 だから、強いて言えば、高度な道徳、教育勅語まで行かないにしても、かつての日本の教育制度をもうちょっと見直してほしい。今はよくないと思います。だから、教育の見直しということにしましょうか。



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